昨今の建物には、一般的には機能第一主義で冷たく無機質な建物が多い。 この方が、万事能率主義の現代には合うのに違いない。
この傾向は住居でもひとしい。我々の住まいもずいぶん様変りしたと思う。 人間生活の入れ物だから、生活様式によって変わるのは当然だろう。 しかしこの生活様式は問題がある。
改めて考えてみると、昨今の住まいから追い出されたものの第一は、床の間である。実用性から言うとなくてもよい。どうせ飾りだと思われるからであろう。
床の間があっても掛け軸がない、花を生けるのも面倒だ。 そもそもトコという日本語は、(頑丈でビクともしない絶対に変わらないもののこと)家には当然ユカ板を張る、その上に畳を敷いたり、そのまま化粧板を張ったりする。 しかし、ユカはいつ抜けたって責任を問われない。
ところが絶対に安全で抜けたりはしない一隅が「トコ間」なのである。 そこは建物の晴れの場所として必要だった。だから昔は、よくそこに座った。
天子や将軍になるとさらに床の間は一段高く豪華に作られた。 それほどに床の間は特別に迎えた客人、一家の主が座るき場所
として聖空間であった。今は、それが形式化して狭なり、偉い人が座る場所が 飾り物をおく所に変わってきた。
しかしいかに変貌しても、トコの間だから別扱いで、ト柱には銘木を使うとかトコ板、トコ天井には特別な材料をうではないか。
実用性を失っても、なおこんな扱いを受けるのは、全体ユカの一部にトコを置くことで、象徴的に建物全体を統率する秩序を与えるからである。
昨今の床の間は、もしあったとしても一畳ほどの空間で、いかに偉い人でもそこに座ることはあり得ないが、つねに空であっても家の主座を聖空間として意識し、そこを一家の神の拠り所として日々の生活が行われることが、とても大切だった。 だから床に生ける花は中心の人間の代わりであった。床間に掛ける花も書も同じ働きをする。 床の間の花や書画が語りかけてくる良質の言葉は、一家中心人物が語りかけ、一家を統率していく者の発する言葉等しいものであった。
その発言者はトコ(不変)なる者の言葉だった。日本語はトコと言う言葉が悪い物に使われた例がない。
「とことは」常とは(平安時代迄はトコトバ)永久にかわらぬこと。
とこしえ。何時も、いつも賛美されるものに用いられた。床の間も同じである。 「寝床」(抜け落ちない保証があるから安心して寝らた) 「床屋」(髪を切るなど、昔は命を絶つのと同じだった。その場所は神聖でなければならない)
|